高野屋の歴史

高野屋の初代 高野勇助は現在の熊本県八代地方の生まれで、出島埋立工事の為1620年頃に長崎に移り住んだと言われております。

その後、現在の長崎市万屋町近辺に魚屋を開業しましたが、1620年代に海外より伝来した「からすみ」に興味を持ち、長崎近郊の野母崎に質の良いぼらが水揚げされる事に目を付け、そのぼらの卵巣を用いる事と合わせて、製法につきましても日々研鑽する事でより美味しい「からすみ」を提供する事ができるようになりました。

延宝三年(1675年)の創業以来、この技術を代々進歩させながら一子相伝の技として340年以上に渡り伝承してまいりましたが、これからも「高野屋のからすみ」を皆様方に末永くお届け出来ますように、今まで同様の研鑽を怠る事のないように努力し続ける所存でございます。

現在より数十メートル西に位置した店舗(昭和初期の頃で人物は十代目の作重) 現在の店舗
現会長、十三代目 高野昌明 十四代目社長 高野正安
「今も、一子相伝の手作りです」

「野母からすみ」の誕生

高野氏先祖累代墓碑文によりますと、高野家の祖先はもともと現在で云うところの熊本県八代地方に住んでおりましたが、延宝年間に高野久右衛門が出島埋立て工事のために長崎に移り住んだと刻まれております。

久右衛門の子、高野屋初代・高野勇助は、現在で云うところの長崎市万屋町近辺で魚屋を営んでおり、大阪へ行った際に海外より伝来して来た「からすみ」を食し、これに興味を持つようになりました。そこで、長崎近郊の野母崎方面で質の良い鯔(ぼら)が水揚げされる事を知っておりましたので、野母崎産鯔が育んできた卵巣を「からすみ」の原料として用いてみようと試み、また、製法につきましても研究を重ねた独自の手法によって作ったところ、従来の「からすみ」よりも大変美味しい「野母からすみ」が出来上がりました。

この高野勇助が作り始めた「野母からすみ」が現在の「高野屋の長崎からすみ」の原型ということになります。

  • 受け継がれる先祖の墓碑
  • 墓碑の文章を写したもの

将軍家および宮中へも献上の歴史

勇助は、出来上がった「野母からすみ」が大変美味しいものだったので、当時の長崎奉行に差し上げたところ、長崎奉行は出来栄えをたいそうお褒めになりこれを幕府へと献上なさいました。
将軍家も「野母からすみ」をお気に入りになられたため「高野屋」は幕命のもと、七代にわたって正徳二年(1712)から慶応三年(1867年)までの156年間毎年、他の長崎俵物(長崎産水産加工品)と併せて将軍家へと献上することとなりました。 このことが故に「からすみ」が長崎の名産品として世間に広く知れ渡ることとなったとも碑文に刻まれております。

近年では、昭和初期まで宮内省への御用品として献上されており、写真はその時の献上品を撮影したものです。

  • 宮内省(現在の宮内庁)への御用品

高野屋は延宝三年(1675)の創業以来、初代・高野勇助の製法を代々進歩させながら一子相伝の技法として340年以上に渡り伝承してまいりましたが、これからも美味たる「高野屋の長崎からすみ」を皆様方に末永くお届け出来ます様に代々同様の研鑽を怠ることのないように努力し続ける所存でございます。